2007年07月15日

好きな武将とその逸話C

石田 三成

石田家家紋
 

 豊臣秀吉の側近は前期・竹中半兵衛 中期・黒田勘兵衛
そして豊臣政権が安定して以降の後期は石田三成である。

 三成は幼名「佐吉」といい、近江坂田郡石田村に住む地侍
石田正継の次男で十代の始め頃、寺に入れられていた。

 いっぽう秀吉は織田信長の部将として近江長浜二十余万石に
封ぜられ、はじめて大名になったころである。

 あるとき秀吉が鷹狩りをしていた際、あまりにのどが渇き
ある寺に入って「茶を所望じゃ」と言ったという。
寺の奥で声がし、現われたのがこの寺の小僧であった
三成である。

 三成は寺の奥で茶の支度をし秀吉に持っていった。
その最初の茶は、ぬるめの茶を大きな茶碗の七・八分目に入れて出した。

秀吉はこれを飲み「気味よし、さらに一服」と命じたと言う。
のどが渇いていたので一気に飲み干したのである。
そのための茶の温度量がちょうどよかった。

 三成は今度、茶の温度をやや熱くして、量は最初の半分にして出した。
秀吉はこれも飲み干し「さらに一服」と命じた。

秀吉はこのあたりから、この小僧は使えると思って観察しはじめた。

 三度目に運ばれてきたものは、舌の焼けるほどの温度の茶を
ほんの少しだけ小茶碗に入れたものであった。

秀吉はこの機転の利く寺の小僧に感心し、寺の住職に頼んで
城にもらい受ける事にしたのである。

 さて、三成が大名に取り立てられたのは二十三、四歳のときである。
石高は秀吉の小姓出身の同僚、加藤清正(肥後熊本二十五万石)
福島正則(伊予今治十万石)らと比べて、はるかに小さい四万石。

ただしその領地は四国や九州の遠国ではなく近江水口であった。
秀吉は自分の参謀である三成を手近におきたかったのであろう。
同時に秀吉が関白に就任したのに伴い、従五位下治部少輔に叙任された。

 その後、三成は九州征伐、四国征伐と参陣し武功をあげるのではなく
後方の兵糧、武具などの輸送・補給を担当し、
この二つの戦が比較的短期間で終わったのは
数学的頭脳の優れた三成が、これを担当していたからである
ともいわれている。

 秀吉は三成のこういう才を愛し文禄元(1592)年
朝鮮出兵(文禄の役)の時、大谷吉継、増田長盛とともに三成は
総奉行に任命され、おもに渡海運輸を担当し、
船は四万艘、兵は二十万人、さらに兵糧、馬、武器
これらの輸送を滞りなくやってのけた。

 文禄(1595)年、秀吉から近江佐和山十九万四千石の
所領をあたえられる。
三成はここに佐和山城という天下有数の巨城を築くのである。

 当時近江の村々でうたわれた歌で
「治部少輔に過ぎたるものは、島の左近と佐和山の城」
というものがあった。

島左近というのは、かつて大和の筒井順慶の侍大将として
合戦と策略の天才といわれた武将で、三成が当時自らの
知行の半分を与えて召抱えたという人物である。

 慶長三(1598)年八月、豊臣秀吉が死去すると
家督は息子、秀頼が継いだ。
しかし、次の天下の座をねらう豊臣政権大老、徳川家康が
次第に台頭してゆき、あらゆる謀略を用いて、豊臣家の普代大名である
加藤清正・福島正則らといった三成とは敵対関係にあった者達などを
味方に引き込んでいった。

 慶長五(1600)年七月、三成は謀略を繰り返す家康を排除すべく
上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の密議を図った。

 同年七月十七日、三成は毛利輝元を西軍の総大将として
大坂城に入城させ、前田玄以・増田長盛・長束正家の
三奉行連署からなる、家康の罪状十三ヶ条を諸大名に公布した。

 そして同年九月十五日
東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。

当初は西軍有利であった。
石田家の兵力は六九〇〇人余りで、東軍、細川忠興、・黒田長政・
加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の相手に対し、
島左近・蒲生郷舎・舞兵庫らの働きによって善戦した。

しかし、じょじょに押されていき、最終的には小早川秀秋らの
裏切りによって、西軍は総崩れとなって三成は戦場から逃走し
伊吹山に逃れたが、九月二十一日捕縛される。

 そのころ家康は近江の大津城に宿陣しており
その門前に縄をかけた三成を座らせるように命じた。
家康はこの日、自分に味方した諸将が挨拶にやってくることを計算し
三成の姿を見せることで、豊臣家の時代は終わり、これからは
徳川家の時代だということを知らしめようとした。

最初に三成の前に現われたのは、秀吉子飼いの武将
福島正則であったとされる。
三成憎しということで、家康に味方したのだが、結果として
家康の天下とりの足がかりをつくってしまった。

このとき三成は、正則に対し
「この目で見たことをすべて太閤殿下にご報告し奉る。
 正則、心得ておけ」といったそうである。

 その後、三成は大阪・京都と罪人として引き回され
京都六条河原で
「泉下で太閤殿下に謁する。それのみが楽しみである。」
と言い残し、斬首された。
その首は家康によって晒し首にされた。

この六条河原に護送される途中、三成はのどの渇きを覚え
護送役の奥平家の組頭に「湯はないのか」と声をかけた。
護送中に湯などあるはずもなく、組頭は
「干し柿ならある。代わりにこれを食されよ。」と言い
干し柿を三成の檻の中に投げ入れた。

すると三成はひとことするどく「柿は痰の毒だ」と言った。
これを聞いた組頭は、もうすぐ処刑される人間が体を
気遣ってもしかたがないと言い、大声であざ笑った。

そのとき三成は、
「下郎、大丈夫たる者が義のため老賊を討とうとした。
 しかし事、志と違い、檻輿(かんよ)の中にある。
 が、一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま
 どのような事態がおこるか、天のみが知るであろう。
 さらばこそ眼前に刑死がひかえているとはいえ、
 生を養い毒を厭うのである。」
と、一語一語さわやかに言った。

これを聞いていた獄吏、群衆も一時息をひそめて
押し黙ってしまったという。

 最期の最期まで義の為に敵を討つチャンスを
うかがっていた三成の姿は
まさに「武士道精神」也。


石田三成の墓


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2007年07月11日

好きな武将とその逸話B

黒田 官兵衛
kuroda.gif
 

 羽柴秀吉の二代目軍師として秀吉のあげた功績のほぼ半分を
助けるほどの働きがあった人物である。
彼は先見の明があり、非常に計算高い男であった。

 官兵衛はもともと播州の土豪で小寺氏という家に仕えていた。

 その頃、織田信長は羽柴秀吉を総司令官に中国地方、
毛利攻めを進めていた。
播州の豪族たちは西に毛利氏、東に織田氏とはさまれた状態であったが
その大半が毛利側についた。

 官兵衛の主君、小寺氏も当初は毛利側につこうとしたのだが
官兵衛の進言により織田側につくことになった。

 天正六(1578)年十月
織田信長の重臣、摂津有岡城主、荒木村重が謀反を起こし
毛利側に寝返った。

 官兵衛の主君、小寺氏もこれに同調の動きを見せたため
官兵衛は秀吉の許可を得て、単身有岡城に乗り込んだ。

 しかし、入城するやいなや官兵衛は土牢に投げ込まれてしまった。
官兵衛の主君、小寺氏が荒木村重に官兵衛をつかまえるように
依頼していたのだ。

 およそ一年後、織田軍により有岡城が落城して
官兵衛は救出されたのだが、陽のあたらない湿っぽい土牢で過ごしていた為
ひざが曲がり、死人も同然の姿であった。

 荒木村重が官兵衛を生かし続けたのは、
なんとしても官兵衛を味方につけようと考えていたからだろう。
しかし彼はそれを受け入れようとしなかった。
なぜなら官兵衛は信長の天下がいずれやってくると確信していたからだ。

村重に寝返ったとしても、すぐに滅びるに違いない。
裏切り者の汚名を着るよりも、獄死したほうがよっぽどましだと
官兵衛は考えていたのである。

 官兵衛の織田氏に対する忠誠心を知れば、
たとえ自分が死んでも秀吉のもとにいる息子、長政も取り立ててもらえるだろう。
あるいは城から生きて出ることが出来れば、自分の地位は
向上するはずで、これで黒田家も安泰だ。
そんな打算があったのだろう。

 生還した官兵衛は一万石を与えられて大名となり
秀吉傘下の軍事役という大役を担うことになる。

 − 本能寺の変 −

 天正一〇(1582)年、京都の四条西洞院・本能寺において
織田信長が明智光秀により謀殺された。

このとき官兵衛は号泣する秀吉に歩み寄り、
「君の御運開かせ給うべきはじめぞ」と笑顔で叱咤したという。

ようするに
「殿が天下をとられる千載一遇の好機が到来しました。
 光秀に一戦を挑み、上様(信長)の仇討ちをすれば
 織田家の他の家臣たちも殿に従わざるを得なくなります。
 早く事を急がれませ。」という事である。

 しかし、この言動は軽はずみであった。
秀吉も言わずと知れた智略の持ち主であり、当然そのことを
気づいていたのだが、この場面でそれを口に出してはいけない。

この言動が原因で「この男の智 おそるべし」という見かたをした
秀吉から、官兵衛は以後、生涯にわたり警戒されることになる。

 秀吉のもとで戦功をあげる官兵衛であったが、それに対して
与えられたのは、豊前国(現大分県)中津十二万石のみだった。

このような仕打ちに嫌気がさした官兵衛は天正十七(1589)年、
引退を願い出た。秀吉はこれを了承し、中津十二万石は
官兵衛の息子、長政に譲られて、官兵衛は剃髪して
「如水」と号した。

 中津で暮らしたいと望んでいた官兵衛だったが、
自分の目の届かぬところに官兵衛をおくのは危険だと考えた秀吉は
その希望を認めようとしなかった。

 後年、天下を得た秀吉は、あるとき一人の近臣から
「なぜ、あれほど功績をあげた官兵衛に対して、あのような
 小封しか与えなかったのですか」と質問されたことがある。

秀吉は笑って
「もしも官兵衛に百万石を与えれば、天下をとられてしまう」と言った。

 これまでに官兵衛を危険視した秀吉だが官兵衛は本当に天下を
ねらっていたのだろうか?
その答えは関ヶ原の合戦前に見ることができる。

 関ヶ原の合戦のとき官兵衛の息子、長政は家康に味方すべく
兵をすべて引き連れて所領を出発していった。
官兵衛は息子が出発するやいなや、これまで貯めてきた金銀と
引き換えに、浪人や農民・町人・職人など誰でも呼び込んで
傭兵として採用し、三六〇〇もの兵を集めた。

官兵衛は関ヶ原の合戦は家康勝利となるにしても、長期戦になり
勝利した徳川軍も相当の被害を受けているはず。
まず九州を平定して、中国・近畿と攻め上がり、
そこで戦で疲れている徳川軍を攻めつぶすのはたやすいと考えた。

官兵衛は周辺諸国を攻略し、九州全土を平定するかの勢いで
攻め上った。

 − しかし、関ヶ原の合戦は、たった一日で決着がついた −

しかも息子の長政が、西軍の小早川秀秋や吉川広家を寝返らせて
家康軍を勝利に導くという大手柄をあげたという。

この功績により息子、長政は筑前(現福岡県北部)五二万石余りの
大封を与えられた。

 この四年後、官兵衛は息を引き取るが、
家康もやはり官兵衛を「心底が知れない」と恐れ続けたと言う。

 引退してもなお天下をねらい続けた官兵衛の姿は
まさに「武士道精神」也。

黒田官兵衛の墓↓↓

黒田家の墓


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2007年07月10日

好きな武将とその逸話A

島津 義弘

島津家家紋
 

 島津義弘は、兄義久・弟歳久、家久とともに「島津四兄弟」として
知られた薩摩の武将である。

 関ヶ原の合戦のとき義弘は六十六歳で、
石田三成・小西行長・宇喜多秀家らと同じ西軍であった。


 − 午前八時 戦いが始まる −

 しかし、義弘はなぜか兵を一人も動かそうとしない。
三成の使者が再三戦いの要請に訪れても、理由をつけて追い返してしまった。
その後、三成自らが要請に訪れたが、
「我々は我々の戦いをする」
と、とりつくしまもなかったという。

 合戦が開始されてからおよそ四時間後、
同じ西軍の小早川秀秋の裏切りによって戦況が西軍不利に大きく変化しても
依然として義弘が動く様子がなかった。

 なぜ義弘は戦わず傍観していたのだろう

一説によると、義弘は東軍の徳川家康と親しい間柄にあったのだが
三成の挙兵により、その勢力範囲に取り残され、
西軍につかざるを得なくなった。
 しかし、西軍についたからには勝利に導くべく、軍議であらゆる策を
提案したのだが、三成にことごとく却下されたためだとされている。

 いよいよ西軍が壊滅状態になり、東軍勝利が決定的になったとき
ついに島津軍が動き出した。
義弘は戦場からの脱出を決意したのだ。

 その道はただ一つ、総勢九万余りの東軍が陣をはっている後方にある
伊勢路に向けての敵陣中央突破である。

 薩摩では戦いで大将を討ち取られることは「最大の恥」とされていた。
やすやすと義弘を討死されるわけにはいかない。
義弘主従は一丸となって伊勢路をめざし敵陣を切り裂いていく。

 家康はこれを見て、井伊直政と本多忠勝に
義弘を討ち取るように命じた。
直政と忠勝は両側から包み込むように義弘を攻め、
「最強の兵」とされる島津軍とのすさまじい戦いが繰り広げられた。

 直政・忠勝の追撃に対し、島津兵は「座禅陣」をとって阻止した。
座禅陣というのは、地面に点々と座り込んで銃を撃つ陣形で
後ろの兵が銃を撃っている間に、前にいた兵が銃を撃っている兵の
後ろにつくというもので、この動作を繰り返し追撃を振り切っていくのである。
まさに捨て身の陣形である。

 多くの犠牲を払いながら義弘は無事脱出を果たした。
島津領にたどり着いたときに残っていたのは、わずか八十騎であった。

 家康率いる東軍の中を突破した島津軍の決死の脱出劇は
「島津の背進」と称され、敵方である東軍からも絶賛された。


 − さて、関ヶ原の合戦東軍の勝利 −

 このままでは西軍に属した島津の立場が危うくなる。
と考えた義弘は、東軍の諸将へ書状を送っている。
「関ヶ原の合戦で西軍に加わったのは、豊臣秀頼公への忠節を尽くす為である。
 家康に了解してもらえるよう、とりなしてほしい。」
という内容である。

 一方、家康は関ヶ原の合戦後の九月末、島津征伐の命令を出している。
しかし西軍総大将であった毛利輝元の処分問題を優先させたため
十一月には中止が伝えられた。

 家康が島津征伐を断念したもう一つの理由は
仮に征伐軍を島津に送っても戦いは遠地、しかも「最強の兵」と
称される島津軍が徹底抗戦してくるのは必至で、
徳川方に甚大な被害が及ぶのを、恐れたからとされている。

 その代わりに家康は、島津に謝罪と臣従をもとめたのである。

 島津側はうまく交渉を長引かせた。
家康が上洛の要請をすれば、金がない事を理由に平然と拒否した。
島津と家康の交渉は根本的な解決がつかないまま一年半が経過した。

 慶長七(1602)年四月、家康は島津に誓詞を送った。
その内容は、島津の所領する薩摩・大隅両国(現鹿児島県)と
日向国(現宮崎県・鹿児島県の一部)諸県郡を安堵するというものであった。

 島津は家康との講和に応じた。島津の粘り勝ちである。
毛利輝元らが大幅に減封されたのに対し、島津は全くのお咎め無し。

 島津のような例は後にも先にもない。
関ヶ原の合戦では敗者となった義弘だが、結果としては勝者になった
というべきか。

 義弘のその後だが、こんな逸話がある。
年老いた義弘は床に伏せ、食事もままならないようになっていたが、
食事を取らせる方法が一つだけあったという。

 食膳を義弘の目の前に据え、側近の者が戦場での
ときの声をあげ、陣太鼓を鳴らすと、その声に反応して独力で食事をしたという。
 
 床に伏せた状態でも心は戦場にいた島津義弘の姿は
まさに「武士道精神」也。

島津家の墓

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2007年07月08日

好きな武将とその逸話@

真田 幸村
6monsen.jpg
 慶長五年(1600年)7月
関ヶ原の合戦を前に、父昌幸・兄信之と共に
幸村は、会津の上杉景勝を攻める徳川家康の軍に従っていた。

 下野・犬伏あたりに来たとき、石田三成から打倒家康のための
挙兵を告げる密書が届いた。

 父子三人で家族会議を開き、家康のもとに出仕していたことと、
徳川四天王の一人、本多忠勝の娘をいったん家康の養女にした上で
嫁にもらっている兄信之が家康側、
豊臣方に恩義のあった父昌幸と幸村は三成側に。
というふうに東西に分かれた。
 これは、どちらに転んでも真田家は残ると
三人が判断した結果とも考えられる。

 
 昌幸と幸村はその日のうちに家康の陣営からいなくなった。

 いよいよ関ヶ原開戦。
兄信之は家康の子、秀忠に従って、急ぎ関が原に向けて
中山道を西上したが、
途中、上田城に立てこもる昌幸・幸村と秀忠方の先鋒として
戦わなければならなくなった。

 戦上手の昌幸と幸村の前に、秀忠の軍は苦戦し、
上田城を攻略するのは困難と見て、攻城部隊を残し、
迂回して関ヶ原に向かわざるをえなくなった。

 この戦が原因で、秀忠の軍は関ヶ原の戦いに
間に合うことができなかった。

昌幸と幸村は西軍側として、秀忠軍を足止めするという役目をきっちりと果たした。

 − しかし、関ヶ原の合戦東軍勝利 −

兄信之は父の所領を与えられて九万五千石の上田城城主となる。
(以後、真田家は明治までつづいている。)


 昌幸・幸村は高野山麓の九度山に流された。
その後、十四年間、幸村は九度山で過ごしている。

 父昌幸は慶長十六(1611)年に死亡。
昌幸に仕えていた家臣たちも、兄信之の領する上田に帰ってしまった。

 そんなとき、徳川家と豊臣家が再び対立し、不穏な空気が流れはじめた。

 慶長十九(1614)年十月
幸村のもとに秀頼から再び打倒家康の密書が届いたのである。

 幸村は起死回生のチャンスとばかりに、徳川家の見張りの目をかいくぐり
九度山から抜け出すことに成功し、大坂入城を果たした。

 城中には熟練した武将は少なく、幸村は長宗我部盛親・毛利勝永とともに
「三人衆」と呼ばれ、秀頼から厚い信頼を得ていた。


 − 大坂冬の陣 −

 豊臣方のとった策は、難攻不落の名城を頼りとした籠城策であった。

徳川勢が迫り来る中、幸村が提案した策は、単独で機能する小城砦である
出丸を建てると言うもの。
 軍議で了承を得て、人夫・資材が集められ十一月上旬に完成した。

 城中の者はいつしかこの出丸を「真田丸」と呼ぶようになった。
猟師たちで構成した一隊をつくり、正確に敵兵に向け鉄砲を打ち込ませたり、
敵軍の不意をつく騎馬突撃をしたりと、
その勇猛果敢な攻撃に度肝を抜かれた徳川軍は、大きく崩れた。

 手ごわいと見た家康は十二月十八日から和睦会議を持ち、
大坂冬の陣はとりあえず終息をむかえた。


 その後、慶長二十・元和元(1615)年
家康の策略で大坂城の外堀を埋め立てられた。

 − 圧倒的に不利な状況で再び徳川対豊富の大坂夏の陣がはじまる −

 兵力でも劣る豊臣軍は、まさに風前の灯であった。
このまま戦をつづけても豊臣敗戦は確実であると悟った幸村は
五月七日総勢一万余の兵を率いて、茶臼山(ちゃうすやま)を出撃し、
徳川本陣めがけて突進した。

 数では徳川軍に到底及ばないながらも、すさまじい突撃をくり返し、
幸村は三度にわたって本陣を襲った。

 しかし家康を見つけることが出来ず、次第に劣勢となり後退し
真田の軍勢のほとんどが討死を遂げた。

 幸村は息子の大助に
「お前は城に戻り、秀頼様を最後までお守りするように。」
と言って、走り去る息子の後姿を見送りながら、連日の戦いで疲れ果て
田んぼのあぜに伏しているところを討ち取られた。

 薩摩藩士島津家は、幸村の戦いぶりを評して
「真田日本一の兵」と賞賛している。

 また家康は幸村の本陣突撃のおり、一時は切腹も覚悟したと言う
話などもあり、幸村の勇戦に対する賞賛の声は徳川軍内にも多く残されている。

 主君のために自らを犠牲にし、強大な敵に立ち向かう幸村の姿は
まさに「武士道精神」也。
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PS2ゲームランキング

まずはゲームを自分でランキングしてみました。

1.ファイナルファンタジー[

 武士道精神なのにいきなり横文字と思われるでしょうが、
 ストーリーが良かったですね〜。
 無口で無骨な主人公は、まさに「武士道精神」也。




2.BLACK(ブラック)
 
 またまた舶来モノで、かたじけない。
 ご存じない方も多いと思いますが、
 戦争・特殊部隊ものの映画好きの人の方には
 オススメでございます。

 blackという組織に属している主人公が
 テロ組織と戦うストーリーなんですが、
 戦場に響く銃声や、爆発音、画面の臨場感が
 ハンパじゃないのです〜。
 
 非常に難易度が高いゲームなのですが、
 敵兵を倒しながら突き進む主人公は
 誠に「武士道精神」也。





3.無双系(三国無双・戦国無双)

 無双系作品は歴史好きの小生が幼少の頃から望んでいた
 ゲームそのものでございます。
 
 キャラクターについては色々不満もございますが、
 戦場で敵兵を切りまくる爽快感は最高です〜。
 この作品は言わずと知れた「武士道精神」也。





4.龍が如く1・2

 ストーリーについては任侠道・極道の世界に詳しい方に
 とってはつっこみどころがあると思うのですが、
 バトルでのヒートアクションはストレス発散に
 最適でございます〜。
 
 主人公 桐生が繰り広げる漢の闘いはまさに
 「武士道精神」也。





5.三國志7

 小生は三國志シリーズの中で一番好きな作品でございます〜。

 それまでの作品の君主だけでなく、軍師・一般武将などを
 操作でき、劣勢に追い込まれた自国を戦・策略で
 優勢に持って行く。まさに「武士道精神」也。  

posted by マッシュルーム大好き少年 at 00:40| Comment(1) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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