2007年07月11日

好きな武将とその逸話B

黒田 官兵衛
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 羽柴秀吉の二代目軍師として秀吉のあげた功績のほぼ半分を
助けるほどの働きがあった人物である。
彼は先見の明があり、非常に計算高い男であった。

 官兵衛はもともと播州の土豪で小寺氏という家に仕えていた。

 その頃、織田信長は羽柴秀吉を総司令官に中国地方、
毛利攻めを進めていた。
播州の豪族たちは西に毛利氏、東に織田氏とはさまれた状態であったが
その大半が毛利側についた。

 官兵衛の主君、小寺氏も当初は毛利側につこうとしたのだが
官兵衛の進言により織田側につくことになった。

 天正六(1578)年十月
織田信長の重臣、摂津有岡城主、荒木村重が謀反を起こし
毛利側に寝返った。

 官兵衛の主君、小寺氏もこれに同調の動きを見せたため
官兵衛は秀吉の許可を得て、単身有岡城に乗り込んだ。

 しかし、入城するやいなや官兵衛は土牢に投げ込まれてしまった。
官兵衛の主君、小寺氏が荒木村重に官兵衛をつかまえるように
依頼していたのだ。

 およそ一年後、織田軍により有岡城が落城して
官兵衛は救出されたのだが、陽のあたらない湿っぽい土牢で過ごしていた為
ひざが曲がり、死人も同然の姿であった。

 荒木村重が官兵衛を生かし続けたのは、
なんとしても官兵衛を味方につけようと考えていたからだろう。
しかし彼はそれを受け入れようとしなかった。
なぜなら官兵衛は信長の天下がいずれやってくると確信していたからだ。

村重に寝返ったとしても、すぐに滅びるに違いない。
裏切り者の汚名を着るよりも、獄死したほうがよっぽどましだと
官兵衛は考えていたのである。

 官兵衛の織田氏に対する忠誠心を知れば、
たとえ自分が死んでも秀吉のもとにいる息子、長政も取り立ててもらえるだろう。
あるいは城から生きて出ることが出来れば、自分の地位は
向上するはずで、これで黒田家も安泰だ。
そんな打算があったのだろう。

 生還した官兵衛は一万石を与えられて大名となり
秀吉傘下の軍事役という大役を担うことになる。

 − 本能寺の変 −

 天正一〇(1582)年、京都の四条西洞院・本能寺において
織田信長が明智光秀により謀殺された。

このとき官兵衛は号泣する秀吉に歩み寄り、
「君の御運開かせ給うべきはじめぞ」と笑顔で叱咤したという。

ようするに
「殿が天下をとられる千載一遇の好機が到来しました。
 光秀に一戦を挑み、上様(信長)の仇討ちをすれば
 織田家の他の家臣たちも殿に従わざるを得なくなります。
 早く事を急がれませ。」という事である。

 しかし、この言動は軽はずみであった。
秀吉も言わずと知れた智略の持ち主であり、当然そのことを
気づいていたのだが、この場面でそれを口に出してはいけない。

この言動が原因で「この男の智 おそるべし」という見かたをした
秀吉から、官兵衛は以後、生涯にわたり警戒されることになる。

 秀吉のもとで戦功をあげる官兵衛であったが、それに対して
与えられたのは、豊前国(現大分県)中津十二万石のみだった。

このような仕打ちに嫌気がさした官兵衛は天正十七(1589)年、
引退を願い出た。秀吉はこれを了承し、中津十二万石は
官兵衛の息子、長政に譲られて、官兵衛は剃髪して
「如水」と号した。

 中津で暮らしたいと望んでいた官兵衛だったが、
自分の目の届かぬところに官兵衛をおくのは危険だと考えた秀吉は
その希望を認めようとしなかった。

 後年、天下を得た秀吉は、あるとき一人の近臣から
「なぜ、あれほど功績をあげた官兵衛に対して、あのような
 小封しか与えなかったのですか」と質問されたことがある。

秀吉は笑って
「もしも官兵衛に百万石を与えれば、天下をとられてしまう」と言った。

 これまでに官兵衛を危険視した秀吉だが官兵衛は本当に天下を
ねらっていたのだろうか?
その答えは関ヶ原の合戦前に見ることができる。

 関ヶ原の合戦のとき官兵衛の息子、長政は家康に味方すべく
兵をすべて引き連れて所領を出発していった。
官兵衛は息子が出発するやいなや、これまで貯めてきた金銀と
引き換えに、浪人や農民・町人・職人など誰でも呼び込んで
傭兵として採用し、三六〇〇もの兵を集めた。

官兵衛は関ヶ原の合戦は家康勝利となるにしても、長期戦になり
勝利した徳川軍も相当の被害を受けているはず。
まず九州を平定して、中国・近畿と攻め上がり、
そこで戦で疲れている徳川軍を攻めつぶすのはたやすいと考えた。

官兵衛は周辺諸国を攻略し、九州全土を平定するかの勢いで
攻め上った。

 − しかし、関ヶ原の合戦は、たった一日で決着がついた −

しかも息子の長政が、西軍の小早川秀秋や吉川広家を寝返らせて
家康軍を勝利に導くという大手柄をあげたという。

この功績により息子、長政は筑前(現福岡県北部)五二万石余りの
大封を与えられた。

 この四年後、官兵衛は息を引き取るが、
家康もやはり官兵衛を「心底が知れない」と恐れ続けたと言う。

 引退してもなお天下をねらい続けた官兵衛の姿は
まさに「武士道精神」也。

黒田官兵衛の墓↓↓

黒田家の墓


こんな黒田官兵衛とふれあいたい方は↓↓



 
posted by マッシュルーム大好き少年 at 00:29| Comment(2) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして!
黒田勘兵衛について調べていたら、ここにたどり着きました(゜o゜)詳しくイロイロと書いてあり感激です。私は、黒田勘兵衛さんを尊敬しています!ありがとうです!では失礼します。
Posted by gakuto at 2007年09月03日 12:54
gakuto さん初めまして。
そう言って頂いて、こちらこそ感激ですm(__)m
Posted by マッシュルーム大好き少年 at 2007年09月03日 19:15
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