2007年07月08日

好きな武将とその逸話@

真田 幸村
6monsen.jpg
 慶長五年(1600年)7月
関ヶ原の合戦を前に、父昌幸・兄信之と共に
幸村は、会津の上杉景勝を攻める徳川家康の軍に従っていた。

 下野・犬伏あたりに来たとき、石田三成から打倒家康のための
挙兵を告げる密書が届いた。

 父子三人で家族会議を開き、家康のもとに出仕していたことと、
徳川四天王の一人、本多忠勝の娘をいったん家康の養女にした上で
嫁にもらっている兄信之が家康側、
豊臣方に恩義のあった父昌幸と幸村は三成側に。
というふうに東西に分かれた。
 これは、どちらに転んでも真田家は残ると
三人が判断した結果とも考えられる。

 
 昌幸と幸村はその日のうちに家康の陣営からいなくなった。

 いよいよ関ヶ原開戦。
兄信之は家康の子、秀忠に従って、急ぎ関が原に向けて
中山道を西上したが、
途中、上田城に立てこもる昌幸・幸村と秀忠方の先鋒として
戦わなければならなくなった。

 戦上手の昌幸と幸村の前に、秀忠の軍は苦戦し、
上田城を攻略するのは困難と見て、攻城部隊を残し、
迂回して関ヶ原に向かわざるをえなくなった。

 この戦が原因で、秀忠の軍は関ヶ原の戦いに
間に合うことができなかった。

昌幸と幸村は西軍側として、秀忠軍を足止めするという役目をきっちりと果たした。

 − しかし、関ヶ原の合戦東軍勝利 −

兄信之は父の所領を与えられて九万五千石の上田城城主となる。
(以後、真田家は明治までつづいている。)


 昌幸・幸村は高野山麓の九度山に流された。
その後、十四年間、幸村は九度山で過ごしている。

 父昌幸は慶長十六(1611)年に死亡。
昌幸に仕えていた家臣たちも、兄信之の領する上田に帰ってしまった。

 そんなとき、徳川家と豊臣家が再び対立し、不穏な空気が流れはじめた。

 慶長十九(1614)年十月
幸村のもとに秀頼から再び打倒家康の密書が届いたのである。

 幸村は起死回生のチャンスとばかりに、徳川家の見張りの目をかいくぐり
九度山から抜け出すことに成功し、大坂入城を果たした。

 城中には熟練した武将は少なく、幸村は長宗我部盛親・毛利勝永とともに
「三人衆」と呼ばれ、秀頼から厚い信頼を得ていた。


 − 大坂冬の陣 −

 豊臣方のとった策は、難攻不落の名城を頼りとした籠城策であった。

徳川勢が迫り来る中、幸村が提案した策は、単独で機能する小城砦である
出丸を建てると言うもの。
 軍議で了承を得て、人夫・資材が集められ十一月上旬に完成した。

 城中の者はいつしかこの出丸を「真田丸」と呼ぶようになった。
猟師たちで構成した一隊をつくり、正確に敵兵に向け鉄砲を打ち込ませたり、
敵軍の不意をつく騎馬突撃をしたりと、
その勇猛果敢な攻撃に度肝を抜かれた徳川軍は、大きく崩れた。

 手ごわいと見た家康は十二月十八日から和睦会議を持ち、
大坂冬の陣はとりあえず終息をむかえた。


 その後、慶長二十・元和元(1615)年
家康の策略で大坂城の外堀を埋め立てられた。

 − 圧倒的に不利な状況で再び徳川対豊富の大坂夏の陣がはじまる −

 兵力でも劣る豊臣軍は、まさに風前の灯であった。
このまま戦をつづけても豊臣敗戦は確実であると悟った幸村は
五月七日総勢一万余の兵を率いて、茶臼山(ちゃうすやま)を出撃し、
徳川本陣めがけて突進した。

 数では徳川軍に到底及ばないながらも、すさまじい突撃をくり返し、
幸村は三度にわたって本陣を襲った。

 しかし家康を見つけることが出来ず、次第に劣勢となり後退し
真田の軍勢のほとんどが討死を遂げた。

 幸村は息子の大助に
「お前は城に戻り、秀頼様を最後までお守りするように。」
と言って、走り去る息子の後姿を見送りながら、連日の戦いで疲れ果て
田んぼのあぜに伏しているところを討ち取られた。

 薩摩藩士島津家は、幸村の戦いぶりを評して
「真田日本一の兵」と賞賛している。

 また家康は幸村の本陣突撃のおり、一時は切腹も覚悟したと言う
話などもあり、幸村の勇戦に対する賞賛の声は徳川軍内にも多く残されている。

 主君のために自らを犠牲にし、強大な敵に立ち向かう幸村の姿は
まさに「武士道精神」也。
posted by マッシュルーム大好き少年 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。